視差の経験の学

私は、タケシさんが、おそらく自分でもそれと意識しないまま繰り返しているのが、ほかでもない「いないいない、ばあ」遊びであることに気がつきました。精神分析医のフロイトの著作に、『快感原則の彼岸』(1920 自我論集 ちくま学芸文庫)というのがあるんですが、そこに示されているのは、母親の不在がもたらした寄る辺ない現実に、取り残された子供がいかに対処するか、という具体例です。そこで子供は「細紐を巻き付けた木製の糸巻」を母親に見立てて、それを消したり、出現させたりすることによって、自分の置かれた状況を「再現」するのです。そして、その「子供の遊戯」は敢えて不快を目の前に「再現」することによって、それを克服することを目指したものなのです。私は「紐」と「再現」という事実から、すぐさま『Dolls』(2002)を連想したわけですが、『菊次郎の夏』(1999)でも『アキレスと亀』(2008)でも、要は母親に棄てられた自分の寄る辺なく不快な状況を、遊戯や絵画の制作にのめり込むことで克服しようとする話なわけですよね。そもそも、そうした《姿を消すことと姿を現すことで成立する一組の遊戯》というのは北野映画の随所で現れる、ほとんど「致命的」な、だから「イノチガケ」な主題なんです。

たとえば、1994年の「バイク事故」によって、まずは私たちの前から「いないいない」によって姿を消して、やがて「ばあ」とばかりに戻ってきたタケシさんは、その顔面を麻痺によって畸形化させていましたが、そのこともやはり《姿を消すことと姿を現すことで成立する一組の遊戯》の問題として考えられるべきだと思います。そしてそうだとしますと、タケシさんの「顔面麻痺」も「イノチガケ」によって獲得された剰余価値の「しるし」として解釈できると思います。実際、タケシさん自身がつぎのようにいっているのです。

それにしても、瀕死の事故を起こして脳に異常がなかったのに、顔の表面に麻痺という症状が刻印のように残ったことは、どうもいろいろ考えさせられるね。オレが芸人という顔で勝負する仕事をやっているからなおさらだね。人間の人間らしさの本質が脳の力にあって、顔ってのはほんの表面のことなのに、その表面のことがじつに大きな問題になっちゃっている。「死」も不可解だけど、それ以上に「顔の麻痺」はわけの分からないことだ。おもしろいね。(『顔面麻痺』 太田出版) 

すぐに気づかれると思いますが、「おもしろい」(interesting)は、まさに「利子」(interest)をはらんでいます。「それ」がタケシさんによって「わけの分からないこと」と解釈されているのですね。というのも「顔面麻痺」という奇怪な事態は、否応なく「強い視差」につきまとわれていますから、タケシさんにとってだけでなく、私たちにとってもなにか狐につままれたような「わけの分からないこと」であるほかはなかったのです。それからのタケシさんの、ときに、わたしたちをたじろがせもした調子外れで「独我論的」な言動も、周囲を考慮することなしに、その事態の解釈に没頭したことによるとみてよいのではないでしょうか。

こうしたわけなので、北野武を解明することは、どうしても「視差」の経験の学とでもいうべき「学的認識」とならざるをえないのです。そして、まさにここにこそ、私たちの困難があるといえるかもしれません。というのも、いわゆる有識者のみなさんが、タケシさんを蔑むばかりで、けっして「それ」を相手にしない以上、ほかでもない著しく「学」を欠いた私たち、「とるにたりない民衆」、「知の凡人」こそが、あらためて、もう一度、「それ」に取り組まむことで、今ここに「汝」をもたらさねばならないのですから。