東方見聞録

 やんごとなき「麿」ことおじゃる浅田が、なんといっても「麿」にこそふさわしいその烏帽子から取って置きのプリンを取り出しては気の向くままにそれを食し、プリンと同様に「麿には欠かせんでのう」とかいう「楽」の音に浸ってまったりするかと思えば、もう一方のホラッチョ蓮實は、君たちが「ボヴァリー夫人」を支持するのであれば、連帯も可能であるといっている。公職にありつくと、忽ち「スター」気取りで勝ち誇る「僕」ちゃんたちの蔓延る今時とは、まさにそうした両者の中間においてこそ可能な「呆治」国家の謂いであろう。
 たとえば「今時」の流行作家であられる佐藤優先生が、国家と社会との間の抑制と均衡の問題を、権力と権威との間のそれに擦り替えるのも、そもそも取るに足りない民衆ごときは、小泉純一郎と田中真紀子のコンビの登場時がまさにそうであったように、丸山眞男のいう「トピックへの関心」を惹起することに長けた「存在」によって、忽ちたわいなく束ねられてしまうどうしようもなく「原子化」された連中にすぎないのだから、どうしたって信用できない、という危機感によるのであろう。それは長年の官僚としての経験から来る、まさに「インテリジェンス」のなせる業というところであろうが、われわれとしてはその民衆蔑視に「インテリジェンス」どころか、むしろ三島由紀夫や蓮實重彦の系譜に連なる「空疎な美学」(イロニー)を認めざるをえないのである。
 つまり、彼らのような本来的な「読書人」が空疎化を目指すところの対象こそ、「東夷」(当為)としての「武」にほかならない。そもそも彼らのような「みやび」にとって、「国民的存在」でもある「武」とは、なんとしても「抑圧」されねばならないどうしようもなく「野暮」なものなのだが、まさにその「抑圧」こそが、将来「武」が回帰してしまった場合の社会的インパクトを強めてしまうことを知ってもいる聡明なる「読書人」としての彼らは、かくして「無口」を決め込むという次第にならざるをえない。しかるに、そうした彼らの「無口」によっていわば時間的に先送りされた「武」は、やがて「決済」となって、「みやび」なる彼らに襲いかからずにはいない。というわけで、もはや彼らの「空疎な美学」によるのでは、到底「武」に対抗できないことは明らかである。
 ここで、われわれの課題は「国民的存在の無意識はいかに働くか」である。おすぎとか佐高信とかに代表される、おのれの無内容を他人への誹謗、中傷によってごまかすだけの体たらくによって、「武はバカだ!」と幾度くりかえし罵倒してみたところで、それは「衆愚はどうしようもない」というだけのことと同じく、何も明らかにされない。さらに、蓮實重彦や浅田彰に向けては、「武」に対するその「分析=記述」のまったき欠如について、かつて彼らが小林秀雄に向けたの同じ容赦ない糾弾がなされるのが当然である。
 結局のところ、ビートたけしを「批判」するには、その「無意識」を分析にかけるのがもっとも効果的である。というのも、「それ」が「国民的存在」であるということはまさに「ネーション」に関わることだから。『BROTHER』(2000)をみれば明らかなように、「ネーション」が対外的に拡張するとはすなわち「戦争」をやることなのである。そこで、「武」はまぎれもない「決断する主体」なのだ。さらに「武」はその「イノチガケ」の飛躍によってついに「利子」を実現する。それは価値を増殖して戻ってくる。そして、その「価値増殖」は「武」がそこで開示する「複数システム」(強い視差)の存在によってはじめて可能となるところのものである。しかも、その「贈与」としての利子は、それを受け取る者を未来永劫に亘って拘束し、やがて「病」を生じさせるほどに暴力的である。かくして「武」は、「国民的存在」としてのおのれの中に生じた「超自我」というべき『Dolls』(2002)を生み出す。それは《ネーション自体が存分に発揮した攻撃欲動の結果として生じたのだ》(定本 柄谷行人集4 ネーションと美学 岩波書店)。そこで暁に宙吊りされる「二つ折り」とはまさしく「崇高な理念」(the high ideals)としての「9条」にほかならない。いかに「畢竟時勢遅れ」のもののごとく偽装されていようと、その表面に露出した「無意識」(エス=菊次郎 詳細については『菊次郎とさき』新潮文庫 68ページを参照)を覆い隠すことなどできない。
 だから最後にくれぐれもあなたがたにいっておく。この世界に「無意識」に勝るものなど決してありません。ほかでもない「武」においてこそ、「自然の狡知」が働いているのだ。

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