畏怖する守銭奴

   天国は待ってくれない おとぼけでないよ

「映画は云々でなければならない」とか「何某は映画に愛されているが、何某はそうではない」とかいった差別化は、どこまでも「一系」に基くがゆえに、「わしだぁ~、わしだぁ~、ボヴァリー夫人はわしだぁ~」と同様に虚ろな叫び(私的言語)でしかありえないのである。「朕はわしなり!」、「わしが法だ!」。なぜか? その「ゲームの規則」としての「中華思想」を西方から当地に導入したのは、ほかでもない、このわしだから、である。そして、そこで「ゲームの規則」とはすなわち、それによって「歴史=複数システム」を抹消することを企図して導入されたところの、かの「映画史」にほかならない。したがって、奴は「映画史」に無知な者たちとは、どうあっても話が通じない、などという。しかるに、そもそもそうした中央から、「夷狄」と分類・登録される、話の通じない「亜周辺」における存在こそが「武」にほかならないのだから、「武」とはまさに「他者」の謂いである。

こうした歴史的な要因によって、かつての教え子たち以外に対しては、もはや「権威」たることを喪失した蓮實重彦は、それでもなお、根拠を欠いたいたいけな若年及び暇をもてあました御人好しの老年の者らに対して、何がしかの影響力の行使を企図して、空疎なその言説を吐き出すことを一向にやめようとはしない。それはいわば、信用危機の最中にある金融機関が、手元に現金を、だから貸し倒れ引当金を、積み増すのに似ている。蓮實が積み増す言説が、実際には、たんなる「空疎」でしかないとしても、『みんな~やってるか!』(1995)において明らかなように、「夢の世界」では「空疎」(=糞)とはまた「貨幣」でもあるのだ。要するに、奴は天国に向けて「空疎」(=糞)を積んでいるのである。それは「天国への階段」(レッド・ツェッペリン)にほかならない。したがって、常日頃のみずからを太っ腹であるかのように見せかけようとするひたすらな努力にも拘らず、その実際の行いから判断すれば、われわれは奴をやはり、どうしても「守銭奴」とみなさざるを得ないのである。

ところで、よく知られているように、柄谷行人は「阪神」である。そして「阪神」とは、生来、みずからを格下げせずにはいられない、あるいは民衆にみずからを贈与せずにはいられない存在である。いいかえれば、「首位」(メタレヴェル)であることに耐えられず、みずから自発的に「下位」(オブジェクトレヴェル)へと転がり落ちずにはいられないのが、「阪神」なのである。そして、この人がときに、「シンパ」たちから、突如として離反され、「恨」みつらみで仕返しされたりするのも、畢竟この人が「からごころ」(HAN)、すなわち貢がれたものに対して返礼を「与え過ぎる」、がゆえである。まさに、そこで問題となるのが、「から」(HAN)と「武」(BI)をつなぐところの「ハイフン」なのである。では「ハイフン」とは何か。当然、それは共同体と共同体の「間」に生起する。たとえば、甲子園球場において、阪神の選手各自をほかでもない「意識」として発生させるために、「それ」を媒介するのは観客である。では観客とは何か。いうまでもなく、われわれ「民衆」(「消費者としての労働者」)のことである。だから、われわれ民衆こそが「ハイフン」なのである。要するに、「出来事=歴史」をもたらすのはあくまでも、われわれ「とるにたらない」民衆であるということ、われわれが「武」から得るべき認識とはまさにそうしたものにほかならない。

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