南無コマネチ!

ところが、キタノとカラタニの、いわゆる「K・K」コンビは結成されると同時に解消され、ただちに「アソシエーション」に組み替えられる。宙に吊られた「二つ折り」の「無限遠点」こそが、「可能なるコミュニズム」にほかならない。かくして、そこに「球」(しかもピンクの!)の働きが指摘されるのも当然である。それは「アソシエーション」であるかぎり、「地球規模」(グローバル)であることを強いられるからである。《このことは、剰余価値がグローバルにのみ実現される以上、それを廃絶する運動がトランスナショナルでなければならないということを意味する》(柄谷行人『トランスクリティーク』批評空間)。

もはや、『Dolls』(2002)のラストに現れる「宙吊り」が、「世界共和国へ」の誘いであることに疑いをさしはさむ余地などまったくない。「それ」は「場所を持たぬ」のだ。《余を驚破せり》(北村透谷)とは、まさにこのような事態を指して言うのであろう。「しるし」とは、「他者」の謂いである。「それ」は、「強い視差」を伴ってやって来る。かくして、キタノを「知る」にはカラタニを読まねばならない、あるいはまたカラタニを得心するためには、ひとは「コマネチ!」に真剣に取り組まねばならない。これが、われらの「当為」である。だいだいカラタニを読まずしてキタノを理解するなどは、金輪際ありえんことである。それは映画評論家と称する連中をみれば明らかであろう。「理論的信」を欠くならば、「それ」を理解することは不可能なのだ。連中は、そもそも「知的・道徳的関心」などもったこともないのに、「それは武のことだ」などと思い込んでいるのである。評論は須らく、そういうおのれの「盲信」を問いに付すことから始められるべきではないのか? 

一方、宙吊りの「形而上学=人形」の存在ゆえに、いつしか「コマネチ!」は「可能なるコミュニズム」と交わる自分を驚きと共に見出すことになるだろう。実際、ひとは、北野映画から、成長戦略も、分配的正義(すなわち「政治家(=武)主導」)も、決断する主体も、さらには「友愛」だって取り出すことができるし、のみならず、それらへの批判すらとりだすことができる。そもそも政権交代くらいで、「資本制=ネーション=ステート」の三位一体が揺らぐことがないのは明らかなのだから、「それ」を揚棄する鍵を見いだすために、われわれは北野映画に対し愈々真摯に取り組む必要がある。

事実として、キタノとカラタニは両者ともに、まさに世界に「投げ入れ」られてあるのだから、諸外国の方々も両者のこうした「対話」に、あるいは同じことだが「漫才」に、早晩気付くこととはなろう。とはいえ、日本の映画評論家たちにしても、いつものことながら、またしても外国人に発見と評価の功績を奪われたのでは、愈々「そんなの関係ねぇ」とばかりはいっておれないのではないか。実は外国では評価の高い「日本映画」などといってみたところで、日本の評論が高くした例などないのだから。ゴダールが、「アメリカ映画」や「イタリア映画」が存在したようには、「日本映画」は存在したことがないとか何とかいったのも、結局のところ、「日本映画にないのは批評だ!」(柄谷行人)というのと同じ意味なのである。だからこそ、われわれ「コマネチ!」が、北野映画を「はじめて」解明すべきなのである。しかもその際、「映画史」における分類と格付けといったような「映画狂人」流の空疎な美学によるのではまったく何にもならないことを各自肝に銘じるべきである。そして、あらかじめ覚悟しなければならないのは、その解明の過程において、われわれのそうした営為が、「みやび」にとって、是非とも「改造」を強いねばならない危険思想を孕むものと映るであろうということである。しかも、われわれが「映画狂人」流の空疎な美学とは無縁に、この日本の「一系」支配において、「知的・道徳的関心」に訴えるとすれば、どうしても「みやび」との対決は避けることができない。ゆえに、われわれの身の安全が保障されているとは到底いい難いのではあるが、われわれ「コマネチ!」がこの先、さらに北野映画を認識していった場合に、「強い視差」につきまとわれた「武」を、あるいは同じことだが「くじ引き」を、「一系」支配の只中に導入することに至るのは、もはや必然に等しい道筋といわざるをえないのである。

 それはみずからそう標榜することによってではなく、「トランスクリティーク」、あるいは同じことだが「南無コマネチ!」を生きることによって、「マルクス」主義者であることを、そのひと自身がみずからをそう見なしていなかったとしても、またみずからの意図に反してさえも、ついにはそのおのれ自身にさえ隠された志向をあらわにしてしまわざるを得ないという事態によって、そこに突発的に生起するところの「異種結合」である。そのような横断的「アソシエーション」は、ここで「マルクス」・ブラザース&シスターズと呼ばれるであろう。ひとはこのような「連帯=交通」を恐れるべきではない。「我輩はカモである」としても、結構です。笑われたって構わないじゃないか。われわれには「理念」が憑いているのだ。何を恐れることがあろう。「拙者」が叩き台というにはまるで覚束ないものであるかもしれないが、ともかくもひとつの意見をこうして提出するというのも、畢竟「アソシエーション」によるさらなる解明を期待してのことである。

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