至上命令
第9条(戦争放棄、軍備及び交戦権否認) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本のみなさんがよく御存知の、この日本国憲法第9条って、一見すると、北野映画と正反対ですよね。実際、『BROTHER』(2000)で山本は、まさに、ここで「放棄」されていることを「そのまんま」やってるんですから。つまり、国権(sovereign right of the nation 「ネーション」の容赦ない権利)の発動たる「戦争」をやり、国際紛争を解決する手段として、「武力」を行使しているわけです。なので、タケシさんのことをはなから軽蔑して、まともに取り合わない良心的な人たちの態度にはまったく無理からぬものがあるともいえます。ですが、私の考えでは、『BROTHER』の「戦後」に、『Dolls』が成立、発効した事実には千鈞の重みがあるのです。だって、『Dolls』の最後で「宙吊り」にされるカップルは、この「9条」のように、「二つ折り」にされているんですよ。それは「暁」に芽生えた理念というべきものにほかなりません。
ところで、わたしが、北野映画のふたつのピークというとき、それは『3-4Ⅹ10月』(1990)と『ソナチネ』(1993)、そして『BROTHER』と『Dolls』(2002)を指すのですが、実際、そこには「反復」があると思います。まず『3-4Ⅹ10月』と『BROTHER』は、救いがなくて、女に酷いことで共通してます。そこで、タケシさんは、自分勝手にやり放題やるわけですね。それに対して、『ソナチネ』と『Dolls』というのは、いわば「戦後」です。その時、「武」の限界として、女が現れる、いいかえますと、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という「至上命令」が現れるのです。
要するに、前者の組み合わせは、「ひどいだけ」と謗られて当然の、出口なしの「暴力」(自然必然性)、後者のそれは、その「償い」としてあらわれる「もう一度」(自由と責任)、というわけですから、こうした「反復」に接して、「こんなのは正気の沙汰ではない!」、「何なのよ、ひどいだけじゃない!」、「おまえなんて偉くもなんともないよ!」、「やっぱり、武は自己チュウだし、どう考えても女の敵だ!」などと非難する人たちの気持ちが、わたしにだってわからないわけではないんです。ですが、わたしたちは、「それ」を直ちに斥けるべきではなく、「もう一度」よく考えたうえで、きちんと分析すべきだと思います。タケシさんというのは、なんといっても「国民的存在」ですから、きっと「それ」は国民の「無意識」に違いないのです。実際、私のような外国人からみると、「それ」こそが、「日本その可能性の中心」に思われてなりません。
さらに、わたしたちは『BROTHER』で「利子」が生じたこと、だから「それ」が「資本」の問題であることに注意を向けるべきだと思います。別の言い方をしますと、「それ」は「変態」の問題です。「それ」は「快感原則の彼岸」にあるのです。なので、私たちが、ここで考えなければならないのは、タケシさんのいわゆる「振り子」理論です。今後においても「大戦争」がありうるのと同じように、今後ともタケシさんの極端から極端へと振れるその生き方が改められることはないのだとしたら、やはり北野映画は「身体的な」暴力を描き続けるでしょう(タケシさんの15作目となる新作は、ヴァイオレンス・アクションだそうです。あなたってひとはやっぱり!)。ところが、そのことは結局、《攻撃性の内面化としての「超自我」をますます強めるだけであり》(定本柄谷行人集4 死とナショナリズム 岩波書店)、そのようにしてそこへ「形而上学的な」理念を発芽させないではいないのです。
結局ですね、北野映画というのは、タケシさんの内なる「至上命令」にほかなりません。だからこそ、「それ」に望みどおりさせてやることが、ついには「それ」を「否認」させるということにもなるのです。「それ」(至上命令)は、まさに「それ」を「否認」することによって現れてくるのです。実際、「9条」は、北野映画という、まさに「戦争機械」が、引っ掛けて、吊るすことになる、二つ折りの「人形=形而上学」なのです。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本のみなさんがよく御存知の、この日本国憲法第9条って、一見すると、北野映画と正反対ですよね。実際、『BROTHER』(2000)で山本は、まさに、ここで「放棄」されていることを「そのまんま」やってるんですから。つまり、国権(sovereign right of the nation 「ネーション」の容赦ない権利)の発動たる「戦争」をやり、国際紛争を解決する手段として、「武力」を行使しているわけです。なので、タケシさんのことをはなから軽蔑して、まともに取り合わない良心的な人たちの態度にはまったく無理からぬものがあるともいえます。ですが、私の考えでは、『BROTHER』の「戦後」に、『Dolls』が成立、発効した事実には千鈞の重みがあるのです。だって、『Dolls』の最後で「宙吊り」にされるカップルは、この「9条」のように、「二つ折り」にされているんですよ。それは「暁」に芽生えた理念というべきものにほかなりません。
ところで、わたしが、北野映画のふたつのピークというとき、それは『3-4Ⅹ10月』(1990)と『ソナチネ』(1993)、そして『BROTHER』と『Dolls』(2002)を指すのですが、実際、そこには「反復」があると思います。まず『3-4Ⅹ10月』と『BROTHER』は、救いがなくて、女に酷いことで共通してます。そこで、タケシさんは、自分勝手にやり放題やるわけですね。それに対して、『ソナチネ』と『Dolls』というのは、いわば「戦後」です。その時、「武」の限界として、女が現れる、いいかえますと、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という「至上命令」が現れるのです。
要するに、前者の組み合わせは、「ひどいだけ」と謗られて当然の、出口なしの「暴力」(自然必然性)、後者のそれは、その「償い」としてあらわれる「もう一度」(自由と責任)、というわけですから、こうした「反復」に接して、「こんなのは正気の沙汰ではない!」、「何なのよ、ひどいだけじゃない!」、「おまえなんて偉くもなんともないよ!」、「やっぱり、武は自己チュウだし、どう考えても女の敵だ!」などと非難する人たちの気持ちが、わたしにだってわからないわけではないんです。ですが、わたしたちは、「それ」を直ちに斥けるべきではなく、「もう一度」よく考えたうえで、きちんと分析すべきだと思います。タケシさんというのは、なんといっても「国民的存在」ですから、きっと「それ」は国民の「無意識」に違いないのです。実際、私のような外国人からみると、「それ」こそが、「日本その可能性の中心」に思われてなりません。
さらに、わたしたちは『BROTHER』で「利子」が生じたこと、だから「それ」が「資本」の問題であることに注意を向けるべきだと思います。別の言い方をしますと、「それ」は「変態」の問題です。「それ」は「快感原則の彼岸」にあるのです。なので、私たちが、ここで考えなければならないのは、タケシさんのいわゆる「振り子」理論です。今後においても「大戦争」がありうるのと同じように、今後ともタケシさんの極端から極端へと振れるその生き方が改められることはないのだとしたら、やはり北野映画は「身体的な」暴力を描き続けるでしょう(タケシさんの15作目となる新作は、ヴァイオレンス・アクションだそうです。あなたってひとはやっぱり!)。ところが、そのことは結局、《攻撃性の内面化としての「超自我」をますます強めるだけであり》(定本柄谷行人集4 死とナショナリズム 岩波書店)、そのようにしてそこへ「形而上学的な」理念を発芽させないではいないのです。
結局ですね、北野映画というのは、タケシさんの内なる「至上命令」にほかなりません。だからこそ、「それ」に望みどおりさせてやることが、ついには「それ」を「否認」させるということにもなるのです。「それ」(至上命令)は、まさに「それ」を「否認」することによって現れてくるのです。実際、「9条」は、北野映画という、まさに「戦争機械」が、引っ掛けて、吊るすことになる、二つ折りの「人形=形而上学」なのです。