恐るべき「漫才」事件

    恐怖の「から」谷

     Let us consider the problem in the light of pure reason.
     Ha ! Ha ! Capital ! What do you think of pure reason and its fruits?
       (SIR ARTHUR CONAN DOYLE THE VALLEY OF FEAR)

われわれは、北野武について直接論じたりもする蓮實重彦が、「武」につきまとう「強い視差」をつねに捉えそこなうのに対し、柄谷行人を参照すると、「強い視差」が開示する「複数システム」について、そこに端的な「分析=記述」が見出される(定本 柄谷行人集3 トランスクリティーク 岩波書店 第一部 カント 第1章 カント的転回 3 視差と物自体)という現実の事態をしかと見据えるべきである。いったい、キタノは「砂浜の」あるいは「自転車の」映画作家であるといった類の「呆談」によって、ひとは本当に何かを「知る」ことができるだろうか? さらに蓮實のいう北野武の「掟」とやらのその空疎さ加減はどうだろう? 本当にもう手の施しようのない「末期症状」、安易の極みを示しているではないか。蓮實のだらしなく弛緩しきった「映画崩壊前夜」(青土社)とは無残な「老醜」以外のなにものでもない。それはおのれの「空疎な美学」(「みやび」)を存続させようとして「コネ」に縋る、あられもない身贔屓なのだ。おのれの存続のためには、もはや形振りかまわぬ、恥も外聞もない蓮實のようなボケには端的に「おまえのようなボケは死ね!」と言ってやるべきである。そもそも、奴の「ボヴァリー夫人はどうしたってわしだぁ~」とかいう頑迷きわまる自己主張にしてからが、「近代文学」における「告白という制度」に則ったものにすぎないのだから、「近代文学の終り」とともにその機能は事実上、停止しているのだ。しかるに生い先短いことに居直ってか、奴はその虚ろな叫びを虚ろそれ自体として辺りに響かせずにはいないというわけだから、そうした「糞掻き棒=空疎書き暴」には、やはり早急に身柄を拘束したうえで「去勢」の処置が必要であるかもしれない。そうすれば奴もついに「恥」の何たるかを学ぶであろう。

われわれが当初から確信していたとおり、やはり、「それ」(いわば「仮性」における「反転の契機」!)をとらえているのは、とどのつまりは共同体の慣習によって考えさせられているというだけの、しかもそのことを疑ってみたことすらない映画評論家たちなんかではなくて、むしろ柄谷行人なのだ。「拙者」がキタノを解明するに当たってカラタニに寄生したのも、そういう事情あってのことであり、決して「左翼」のみなさんに対する嫌がらせのためなどではないことを、ここにあらかじめお断りしておかねばならない。

かくして、われわれが、そこから直ちに知るのは、映画評論に現在欠けているのが、「知的・道徳的関心」にほかならぬということである。そして、キタノとカラタニが交わらざるをえない所以はそこにある。つまり、このふたりは、まさに「物自体」(=過去と未来の他者)に関わっているのである。ゆえに、ふたりは、その「超越論的統覚Ⅹ」(「くじ引き」および「球」)において一致するわけである。「しかしキタノがカラタニ的と見えるのは直接にカラタニから学んだからではなく、彼自身がtranscritiqueを生きたからである」。すると、この逆もまた真なりである。「カラタニがキタノ的と見えるのは直接にキタノから学んだからではなく、彼自身がtranscritique を生きたからである」。これこそまさに「位置転換」の恐ろしさにほかならぬ。というわけで、「武」は、自然、次のように問わざるをえない。 

  ほいじゃあ、なにかい、オイラの「コマネチ!」は「トランスクリティーク」なのかよ?

 当然、カラタニは、ここで、「アンチノミー」に陥らざるを得ない。それは次のように言い表されるだろう。 

人間の理性は、ある種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。(カント「純粋理性批判」(上)13ページ 篠田英雄訳 岩波文庫) 

しかるに、これは要するに『BROTHER』(2000)における「友愛」が、あるいは『Dolls』における「恋愛」が、「強い視差」につきまとわれるという事態と同然の出来事であると考えれば、別に難解ではないし、またそれ以外の方法によってこのアンチノミーから脱け出すことは不可能である。わかりやすくいえば、「それ」は根本的に「相棒」にかかわっている。「それ」は新たなるコンビ結成というべき事態である。であれば、アドルノとホルクハイマーあるいはドゥルーズとガタリもすでにいなくなった現在において、現実への絶望が尤もらしく語られる一方で、旧態依然なロマン主義者らによる「すっぱ抜きと憂さ晴らし」(ネガティヴ・キャンペイン)がはびこりもする現在において、カントとマルクスを継承するのがほかでもないキタノとカラタニのコンビネーションであるという事実は、いったい、どういった因果のなせる業なのであろうか。むろん、その原因は複雑すぎて解明することなど到底できないし、むしろ、われわれに、今、必要なのはその原因の究明ではなくて、そこに「自然の狡知」を認めることなのである。いかにもさよう、ふたりは『HANA-BI』の西と堀部にも似た「コンビ」なのだ。ふたりは「弁証法」(ボケとツッコミ)を生きるのである。ふたりは、ここで不世出の漫才コンビである。ふたりは、まさに「どんどんボケろ、びしばしツッコムから」(ビートきよし、アジアはオネoneであるってか?)という関係性を生きているのだと言えよう。ここで誤解をさけるために付け加えておくが、この場合、両者は自在に「位置転換」をはたすのであって、どちらか一方が「ボケ」、他方が「ツッコミ」という具合にその位置が固定されているのではない。というわけで、相対する二点間を動的に揺れて止まない両者は、ほかでもない「今ここ」で、「差異における存在」を生きているのに相違あるまい。

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